第38話「アディオス」

第37話「スーパーシード」ではワンピースの『悪魔の実』をテーマに書きました。
ワンピースは『伏線の面白さ』が魅力の1つだと思うので、今回は【伏線】をテーマに何か書こうかなと。
漫画や小説、映画・ドラマなどたくさんの物語で伏線が素晴らしい作品がありますが、私が伏線回収の作品として最高峰だと思うのは南海キャンディーズ・山里亮太さんの『天才は諦めた』ですね。
ちょうど先週『不毛な議論』が777回放送とおめでたいタイミングでもあったので、『天才は諦めた』の伏線回収の凄さについて語りましょう。
まずは簡単にどんな作品か押さえておきますか。
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『天才は諦めた』は山里さんの自伝的エッセイ。
簡単に言えば、【「自分には才能がない…」と知った山里さんが、コンプレックスや嫉妬を原動力に、努力し続けることで道を切り開いていく】という一冊ですかね。
負の感情って苦しいし、認めたくないから他人に矢印を向けてしまいがち。
だけど、「周りと比べて自分はダメなヤツだ。じゃあどうしたら成功できる?」のように、その矢印を自分に向けられるところが山里さんの凄いところ。
しかも、成功するまで努力をやめない。
これだけお笑いに対してストイックな姿勢を貫ける姿は、勇気と感動を与えてくれるし、「山ちゃんって本当にすごいな。俺も頑張ろう!」と思わせてくれる。
負の感情に飲み込まれそうな人を救ってくれる本当に素晴らしい書籍です。
…と、読んでる途中は思うのですが、この本を読み終えた後に感じる気持ちは違う。
読み終えて、改めて表紙を眺めた時にふと思うんです。
「いや!コイツそもそも天才だろ!(゚Д゚;)」と。
あっ!失礼いたしました!勢いあまってコイツと書いてしまいました。パンパンにしてください。
M-1グランプリ2004で初めて南海キャンディーズの漫才を観た時、衝撃的だった。
漫才中、しずちゃんから感じる怒りを政治へぶつけさせ、自身の脇汗にはごめんとしか言いようがないと言う。
知らない角度のツッコミに、子供ながら「なんなんだこの人…凄いな…面白いな!」と思った記憶があります。
こないだの『不毛な議論』777回目の放送回も「負のピタゴラスイッチ」「おひつじ座の男」のあの瞬発力の高さ。
感心する感度もないくらい、「何でそんな言葉パッと出てくるの?」と20年以上経ってもずっと凄いなって思い続けています。
そんなことを考えると、この本は“天才になれなかった人間がそれを認めて努力する話”ではなく、“天才でもこれだけの努力をしている話”だと気づくのですね。
そこで初めて『天才は諦めた』というタイトルの“本当の意味”も分かる。
最初、タイトルの『天才は諦めた』の意味を『“山里亮太は”天才は諦めた』だと思っていた。
でも、実際は『天才“山里亮太”は諦めた』だった。
この本は「自分は天才じゃない。コンプレックスや嫉妬があるけれど、それを原動力に変えて努力した」という成功体験を届けてくれた…わけではない。
「天才である僕でもこれだけいろんなことを諦めてやってきたんだから、凡人のお前はもっと頑張らないとダメじゃない?」というのが本当のメッセージなんじゃないかなと。
一見「自分なんて…」と思わせといて、気が付いたらもう関節をキメている。
『天才は諦めた』というタイトルに込められた伏線を回収したが最後、山里亮太という人間の天才性を認めてしまっていることに気づく。
でも、そんなメッセージを受け取っても山里さんに対して怒りは感じない。
だって何も言えないから。
それだけの努力をしてるし、いまだに努力し続けてる。
苦しい時もあるはずなのにそんな表情は見せずに周りを笑わせる。
「誰も真似できないワードセンスのツッコミ」
「ライブに立ち続ける向上心」
「画面越しからも伝わる脚の長さ」
天才的な人間がずっと努力し続けてるわけだから何も言えない。
そして、なんだかんだ結局「俺も頑張ろう」って思えてるから何も言えないよね。
天才っていろんな能力の集合体だと思っているけれど、何か一つ重視するなら“継続力”なのかなぁ。。。
このコラムも777回までは流石に続けられないだろうけど、気持ちが切れない限りは続けていきましょう。
そしたら、いつか私も天才になれるかもしれませんね。ミッフィーちゃん。