第61話「知ってるか知らないか」

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第60話「“優”字に争いは似合わない」では『優劣』をテーマに書きました。

優れている人物には優しさも必要なのかなと感じましたね。

今回は優しさについてもう少し深く考えてみますか。

どういう時に人は優しく接することが出来るのか?

私は「理解」がキーワードのような気がしてます。

ということで、今回は「理解」をキーワードに何か書いていきましょう。

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何でSNSの誹謗中傷とかリアルな世界でのいじめが起きるのかを考える時、いろんな原因があるのだろうけれど、個人的には「不安だから」なのかなって。

何が不安か?それは「わからないこと」が不安。

例えば、オバケとか怖かったりするけれど、コレってオバケの正体が何かわからないからだと思う。

実体があるかわからない、それ故に想像力を掻き立てられる。その想像力は恐怖から推測するから不安に感じる。

だからオバケが怖い。

もし、オバケの正体がわかったら?

・・・それはそれで怖いかもしれないけれど(笑)、「わからない=怖い」にはならないのではないかと。

中傷とかも相手のことをよく知らない、でも何か言いたい。その方向を間違えて起きてたりするのかもしれませんね。

「自分が“知ってるか”“知らないか”」は相手への理解にかなり影響を与えるような気がしてる。

私がニュージーランド・オークランドにホームステイした時、衝撃の光景を目にした。

それは、その街で一番大きな通りで原住民のマオリの人が信号待ちしてたこと。

上半身は裸で、腰蓑みたいなの巻いてて。

オークランドはニュージーランドで一番大きな街で、その一番大きな通りで信号待ちをしてたってことは、日本で言ったら東京・渋谷のスクランブル交差点で上半身裸の人が信号待ちしてるみたいなイメージ。

そんなの自分の中にない常識、知らない状況だからびっくりした。

でも、それ以上にびっくりしたのが、その場にいた現地の人達が何にも気に留めていなかったこと。

その状況から『あっ、コレって日常なんだ(珍しいことじゃないんだ)』って理解した。

実際、何度か見かけたけれど、2回目以降は私も何も気に留めなかった。

私が相手を理解できた(受け入れた)のは“実際に知った”からなんだろうね。

この経験をして以来、自分がわからないものに対してすぐに判断するのをやめるようになった気がする。

それが優しさにつながるかと言われたら、そうじゃない気もするけれど、少なくとも即時否定はしないかなと。

ただ自分が知らなくて理解してないのに否定するのが恥ずかしいなって。

頭が良かったり、博識だったら正しいか間違いかすぐ判断できるのかもしれない。でも、あいにくそんな頭は持ち合わせていない。

時代の流れははっきり物事を言う方にあるけれど、私は引き続き「どうだろうねー」と思いながら物事を受け止めていきたいと思います。


【次回のテーマ:「時流」】

第62話「“北の国から”道は通ずる」

『北の国から』の面白さを再発見。価値観や時流によって変わるドラマの見方を、再放送を通して考察しました。

投稿者プロフィール
ゆーじ
日本のWEBライター、ブロガー、助っ人。アレルギー性鼻炎。アイコンの顔は「yuji」で構成。

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