第86話「正解なんて知らないよ」

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前回の続き。
「笑える“違い”と笑えない“違い”の正体は何か?」ですが、私は『距離』だと思ってます。
自分から遠い場所にある“違い”は笑える。
なぜなら、自分には関係のないことだから。
反対に自分に近い場所にある“違い”は笑えないことがある。
なぜなら、自分に影響を及ぼす可能性があるから。
この『遠い』と『近い』という距離感が、違うことに対して凄く敏感になる気がしています。
今回は『距離』をテーマにこのまま書き進めましょう。
例えば、赤の他人が降りる駅を間違えて慌ててたりすると、何となく笑える。
でも、もし自分が降りる駅を間違えて慌ててたりすると、
『周りに見られてるんじゃないか?』と恥ずかしかったりして笑えない。
これは、他人と自分と同じ現象が起きても自分との距離が違う。
だから、一方は笑えて、もう一方は笑えなくなってしまう。
似たような感じで、自分の失敗(人との違い)もリアルタイムだと笑えないけど、
後で振り返ったら笑えたりする。
これは時間っていう『距離』が生まれたことで、
自分のことだけど自分から離れた出来事だから笑えたりする。
まぁ今思い出しても笑えない出来事もあったりするから、
一概には言えないけどね。笑
そういえば、たまに学校に行って学校の授業とは毛色の違う講義をするのですが、
学校(クラス)によってはみんな同じような答えを提示してきます。
当たり障りのない無難な答え。まるで周りと違うことを恐れているような様子が生徒たちの答えから見受けられる。
おそらくこれは周りの子と違うことで、生きづらかったり、笑えない状況になりかねないんだろうね。
学校は閉鎖的な空間だし、事情を想像すると気持ちはわからなくもない。
『考察する若者たち』って本で
【考察して“答え”を得ることで「報われたい」という思考がある】みたいなことが書かれていたけど、
みんな正解(報酬)がほしいというか、それが安心するんだろうね。
その状態が良いのか悪いのかは私には分からないけど、
講義する立場としては的外れでも人と違う答えを見せてほしいとは感じるかな。
だって、前回書いたように「“違い”を楽しめる人でいられたら、人生は豊かになんだろうなぁ」って思ってるからね。
ちなみに、参考にはならないだろうけど、私は学生時代、特殊な環境にミラクルフィットしてました。
過去にコラム(第7話「下から関節決めましょうか?」)でも触れたような気がしますが、
男女も関係なく誰とでも接していたし、
かと言って仲良しってわけでもなかった。
自分ではまともで何も考えず楽しく過ごしていただけだと思っていましたが、
もしかしたら周りの子たちは『アイツ変だぞ…?』と思いつつも気遣ってくれていたのかもしれません。
なんか私だけ『治外(違い)法権』が適用されていたような、
すごく恵まれた環境にいたんだと、いま振り返って思います。
もちろん、当時の同級生といまだに連絡を取り合ってるなんてことはありません。笑
違い(自分)を認めてくれる人が周りにいたから、学校生活は楽しかったし、人と違うことが怖いっていう感覚もなかった。
私は運がよかっただけかもしれないけど。
世の中の流れとして違いを楽しめる社会(学校)になればいいですね。
【次回予告:テーマ「○○」】
準備中
コラム2026年2月10日第86話「正解なんて知らないよ」
コラム2026年2月3日第85話「すべての感情の原点」
コラム2026年1月27日第84話「己の器を測る為」
コラム2026年1月20日第83話「ホワイトパラダイス」

