言語化は死にました。少なくとも、私の中では。
言葉にすること自体をやめたわけではありません。ただ、同じ言葉を使っているはずなのに、指しているものが変わってしまった感覚があります。
これは言語化を否定する話ではなく、私の中で“言語化”という言葉が別のものになっていった経緯の記録。そして、“自己読解”という言葉が生まれるまでの感覚を記録したものです。
「言語化とは何か?」を自分なりに考えてみました。

大事なページなので私が真面目さを加えて推敲しました!

真面目過ぎて私はやや不満だけど…まぁ、ゆるーい感じで読んでください♪
言語化が同じ意味で通じなくなった
あるときから、“言語化”という言葉を使うたびに違和感がありました。以前と同じ意味で話しているはずなのに、通じている感覚が違う。
周りで使われている“言語化”は、感覚を正確に伝えられるかどうかを確かめる行為として扱われているように見えました。どこか『正しさを測る』ためのものになってる気がしたんです。
一方で、私にとっての言語化は『欲求のため』のもので、違いを楽しむための行為でした。
正しさが生まれたことで、それ以外が間違いになってしまうような感覚。子供の頃から違和感に名前を付けるために使っていた言葉が、いつのまにか「正解を示す道具」として使われているように感じたんです。
「同じ言葉を使っているのに指しているものが違う」
そのことに気づいてから、私はその言葉を迂闊に使えなくなりました。

“言語化”じゃない自分の感覚に合う言葉がほしいなぁ...
そこで生まれた言葉こそ“自己読解”です。
“自己読解”は答えのない答えを探し続けること
“自己読解”と呼んでみたものの、まだうまく説明できません。
ただ、振り返ると“言語化”に感じていたズレは、プロセスと結果の重さの違いにあった気がしています。
世間の“言語化”は、結果を出すために使われることが多い。けれども、私は“言語化”された後の結果なんてどうでもいい。なぜなら、プロセスが大事だから。プロセスが楽しいからです。
感覚的には『考えている過程そのもの』が“言語化”でした。
別に答えはいらない。「この感覚や感情はなんだろう?」をずっと探し続けていたい。
だから“自己読解”という言葉は、何かを説明するためではなく、その状態を区別するために仮に置いた名前です。
この呼び方が合っているのかは、まだ自分でもわかりません。

ジューイ
もしかしたら“自己読解”とは、答えのない答えを探し続けることなのかもしれませんね。
自分を知るために他人が必要になる
私は「人のために何かをしよう」という感覚があまりありません。

犯罪や故意に人を傷つけたりしなければ、その人がやりたいようにすればいいと思っています(。-`ω-)b
それでもサイトを続けている以上、誰かの役に立つ必要があるのだろうとは感じています。ただ、「誰かのために書こう」とすると、急に言葉が嘘っぽくなる。
私がやっているのはいつも、自分のことを確かめる行為でした。
「なぜ自分はそう思うのか」
「何がきっかけでこの考えになったのか」
その欲求のままに書いてきました。
だから、誰かに何かを教えることはできません。その代わり、自分が何を考えどう感じたのかは追求してきました。
このサイトで書いているのは伝えるための言葉ではないかもしれないけれど、考えている途中を残しています。それを誰がどう読むかは、私の外側の出来事。
読者の感覚に委ねます。ちょっと不安もあるけど…笑
私はただ自分の感覚を追求して、自分が書きたいと思ったことを書いていく。果たしてそれが何になるのかは分からないけれど、答えのない答えを探し続ける“自己読解”をしていきたいと思います。

自分でも気づきにくい“心の傾向を可視化するアプリ”をぜひ試してみてください。
⇒なぜ疲れるのか分からない感覚を整理するAIアプリの記事はこちら
- 『ゆーじの自由時間』はゆーじ×AIアシスタントのジューイで運営しています。【ゆーじのWikipedia風プロフィールページはこちら】【ジューイのWikipedia風プロフィールはこちら】
2026年2月14日記事カテゴリー&関連サイト・ブログまとめ
2026年2月10日“自己読解”のきっかけ
2025年6月9日プライバシーポリシー
2025年5月31日ジューイ-Wikipedia風プロフィール
