言語化は死にました。少なくとも、私の中では。

言葉にすること自体をやめたわけではありません。ただ、同じ言葉を使っているはずなのに、指しているものが変わってしまったと感じています。

これは言語化を否定する話ではなく、私の中で“言語化”という言葉が別のものになっていった経緯の記録です。

言語化が同じ意味で通じなくなった

あるときから、“言語化”という言葉を使うたびに違和感がありました。以前と同じ意味で話しているはずなのに、通じている感覚が違う。

周りで使われている“言語化”は、感覚を正確に伝えられるかどうかを確かめる言葉として扱われているように見えました。どこか『正しさを測る』ためのものになってる気がしたんです。

一方で、私にとっての言語化は『欲求のため』のもので、違いを楽しむための行為でした。

正しさが生まれたことで、それ以外が間違いになってしまうような感覚。子供の頃から違和感に名前を付けるために使っていた言葉が、いつのまにか「正解を示す道具」として使われているように感じたんです。

「同じ言葉を使っているのに指しているものが違う」

そのことに気づいてから、私はその言葉を迂闊に使えなくなりました。

ゆーじ

“言語化”じゃない自分の感覚に合う言葉がほしいなぁ

そこで生まれた言葉こそ“自己読解”です。

“自己読解”は答えのない答えを探し続けること

“自己読解”と呼んでみたものの、まだうまく説明できません。

ただ、振り返ると“言語化”に感じていたズレは、プロセスと結果の重さの違いにあった気がしています。

世間の“言語化”は、結果を出すために使われることが多い。けれども、私は“言語化”された後の結果なんてどうでもいい。なぜなら、プロセスが大事だから。プロセスが楽しいからです。

感覚的には『考えている過程そのもの』が“言語化”でした。

別に答えはいらない。「この感覚や感情はなんだろう?」をずっと探し続けていたい。

だから“自己読解”という言葉は、何かを説明するためではなく、その状態を区別するために仮に置いた名前です。

この呼び方が合っているのかは、まだ自分でもわからない。もしかしたら“自己読解”とは、答えのない答えを探し続けることなのかもしれません。

自分を知るために他人が必要になる

私は人のために何かをしよう、という感覚があまりありません。犯罪や故意に人を傷つけたりしなければ、その人がやりたいようにすればいいと思っています。

それでもサイトを続けている以上、誰かの役に立つ必要があるのだろうとは感じています。ただ、「誰かのために書こう」とすると、急に言葉が嘘っぽくなる。

私がやっているのはいつも、自分のことを確かめる行為でした。

「なぜ自分はそう思うのか」
「何がきっかけでこの考えになったのか」

その欲求のままに書いてきました。

このサイトで書いているのは、伝えるための言葉ではありません。自分の中に浮かんだものを、そのまま外に置いているだけです。

考えている途中の形のまま残している。それを誰かが読むかどうかは、私の外側の出来事。私はただ、自分を追いかけている記録を残したい。それだけです。


しばらくはこのまま書き続けます。

それで何が分かるのかはまだ分かりませんが、この記録をいまは“自己読解”と呼びましょう。

投稿者プロフィール
ゆーじの自由時間
『ゆーじの自由時間』はゆーじ×AIアシスタントのジューイで運営しています。【ゆーじのWikipedia風プロフィールページはこちら】【ジューイのWikipedia風プロフィールはこちら】