自分探しをしている人はバカにされる。
「そんなの意味ないよ」「30代・40代にもなって自分探しの旅に出るとか気持ち悪い」「中二病」「ただの現実逃避」など…ちょっと言い過ぎたか(;・∀・)笑
『自分探し』について検索するとそんな言葉をよく目にするし、『自分探し症候群』という言葉があることも知りました。
私は20代で自分探しを意識して、30代になった今でも自分探しをしています。
ずーっと自分探しを続けてきて、私は『自分探し』の答えにたどり着きました。
「おれ、死ぬまでずっと自分探しを続けると思うわ!」(≧▽≦)b
どういう人間が『自分探し』をするのか?
そもそも、どういう人間が『自分探し』をするのか?
簡単に言えば『自分のことがよくわからなくなった人』が『自分探し』をします。
世の中にいる自分探しをしたい人のほとんどが、今の自分のことをよくわかっていないはずです。
例えば、就職する前に自分がどんな人間なのか自己分析をする大学生だったり、就職して会社勤めをする上で「何かが違う」と思い悩む人だったり。
「自分って一体何者なの?」という事に気づいて『自分探し』をするのでしょう。
『自分探し』をする人間はなぜバカにされるのか?
おそらく、世の中の8割~9割くらいは『自分探し』をする人に対して意味不明に思っているはず。
そしてその中には『自分探し』をする人をバカにしたり、そういう人間をウザいと感じる人もいるでしょう。
では、どうして『自分探し』をする人間はバカにされるのか?
これはいくつも理由が考えられると思います。
例えば『その人の毎日が充実』しているからかもしれません。
充実していれば迷ったり悩んだりすることがないから、自分を探す必要はないですね。
他には『自分探しはとっく終わった』からかもしれません。
大人になるタイミング(就職活動や仕事など)で自分がどういう人間で、何が好きか嫌いかなど自分と向き合うことをする人が多いので、そういったタイミングで答えを出したのかもしれないです。
一般的に20歳そこそこで自分と向き合って自分のことがわかってくるから、30代や40代になっても『自分探し』をしている人の事をバカにしたり、そうでなくても飽きれたりするのかなと。
私自身『自分探し』をしている以上、自分の使命などを見つけた人の気持ちは分からないので、あくまでも推測にはなりますが、きっと「気づけよ」とか「受け入れろよ」とか「気にするなよ」とか、そんなことを思っているような気はします(・ω・)
私の『自分探し』は周りの人の『自分探し』とは違った
私は今も『自分探し』をしているのですが、『自分探し』について調べれば調べるほど、『自分探し』をしている人達に違和感を覚えるようになってきました。
というのも、私も「『自分探し』をしている人って嫌いだなー」と感じたから。笑
かといって『自分探し』をしている私自身は別に嫌いじゃないし、むしろちょっと好きなんです。
ここで話が終わったら自分の事を棚に上げるクソ人間になってしまいますが、そうではないのでもう少しお付き合いを…m(_ _)m
とにかく疑問が生まれたわけです。
「『自分探し』をする人間は嫌いだけど、私の『自分探し』は別に嫌いじゃない。じゃあその違いは一体どこにあるんだろうか?」と。
いろいろ調べていくうちに一つの仮説が生まれました。
それは『自分探しをしている人間の多くは明確な答えを求めているのではないか?』ということ。
『自分探し』をしている人がなぜ『自分探し』をするのか?それは『どこかに答えがある』という目的があるからではないか?ということですね。
だから旅をするし、セミナー、スピリチュアル、心理学、自己啓発などに興味を持つのだろうと。(これは私の偏見です(/ω\)ゴメンネ)
でも、私は最初から『自分探し』の答えなんて求めていません。というより『自分探し』をしている行為こそが目的で最終地点。
この違いが「『自分探し』をする人間だけど、私の『自分探し』は別に嫌いじゃない」と思う理由だと考えています。
一般的な『自分探し』と私の『自分探し』は違うと思っているので、ここからは切り離して話を進めて行きますね^^
ちなみに、個人的な意見としては「自分探しをしたいならすればいいし、バカにするならすればいい」と思っています。自分の事の話で、他人は関係ないですからね。

『自分探し』に対してどう捉えるのかに関しては、「自分で探してください」って事ですな(´▽`)
私は『もともと自分の事がよく分からなかった人』だった
私は『もともと自分の事がよく分からなかった人』です。『もともと』と言うのは子供の頃から。
子供の頃から変なことに疑問を感じてしまう子で、出来事を簡単に受け入れたり、受け流せない子でした。
中学1年生の頃、社会の授業で生産地の勉強をした時に私は先生から「ミカンとリンゴどっちが好き?」という質問をされました。
私が「どっちも好きです」と答えると先生は「そうじゃなくて、『どっちが』って聞いてるの」と。
私「リンゴが好きです」
先生「なんで?」
私「昨日食べたからです」
先生「そうじゃなくて、どういうところが好きなの?」
私『…どういうところ?』
私はリンゴのどういうところが好きか答えられませんでした。というのも、頭の中ではこんな事を考えていたから。

『まぁ美味しいからだけど、それだったらミカンも美味しいし、味はどっちも甘さもあって、どっちもみずみずしさもある。どっちも好きだし、そもそもこの質問に意味あんのか?…』と。
それで私が答えられないでいると別の子が当てられて、「ミカンが好きです。甘いから。」と答えました。
すると、先生は「なるほど、そうだねー」と言い、私に対しては「こういう風に答えるのよ」と言ってそのまま授業が進んでいきました。
私はこのやり取りの『意味』が分かりません。そして、思い出すといまだに当時と同じテンションで腹が立ちます。笑
いま思えば「適当に答えときゃ良かったんだなー」となりますが、それが出来なかったんです。考え過ぎちゃうから。
子供の頃にこんなどうでもいいやり取りに疑問を持つヤツは、大人になっても変わりません。
例えば、飲み会で目上の人のグラスが空になった時、先輩がこっそり私に「目上の人のお酒がなくなったらすぐに注ぐんだよ」と教えてくれました。
私はこの助言の意味がわかりません。
もちろん、厳密に言えば意味はわかりますよ。でも『意味』がわからないんです。いろいろ考えちゃうんです。

『飲みたきゃ自分で注げば良くね?ってか何でこの先輩は嫌いな上司に対して気を遣えるの?ってか気づいてたけどね。気づいていてワザと気づかないフリをしていたのよ…』と。
きっと『自分探し』をしない人は、こういう状況でも疑問を持たずに行動できる人だったり、嫌で面倒でも「次から気を付けます」と言える人なんだと思う。
私みたいにどうでもいいことをきっかけに、どうでもいい疑問を持って考えてしまう人間は、いつまでも考えちゃうんです。
ちなみに、何となく似たような事を考えていた人の本を読んだことがあります。私より分かりやすい事例を書いているので、コチラを読んだほうがイメージは付きやすいと思います。
話を戻して、、、
子供の頃、言われたことをそのまま出来たり、天真爛漫に過ごしてきた人はベースに『明確な答えが存在していた』のかなと。
だから、『自分探し』で答えを探す人は子供の頃はきっと何か答えを持っていた人なんだと思う。でもそれが一時的に分からなくなって『自分探し』をしてるのかなーって。
つまり、答えがあることがベースになっているから、『自分探し』でも答えを探すという事になるんだろうって。
一方で、私は子供の頃から『明確な答えを持っていなかった』し、それがずっと続いていて未だに『自分探し』をしている。
つまり、私は答えを考えることがベースになっているから、『自分探し』でも考えることが答えになる。
こういう違いが生まれたのかなと考えています。
私が『自分探し』を意識したきっかけ
子供の頃から『自分探し』と呼べる行動をしていた私ですが、もちろんその頃は『自分探し』をしている自覚はありませんでした。
それが『どこかのタイミングで意識する事になった』はずなのです。
では、そのタイミングはいつか?おそらく『ニュージーランド留学』が影響していると思います。
留学に関してはココでは詳しく書きませんので、別記事をご覧ください。

留学をした時は常に考えながら行動をしていました。
英語が喋れないので、相手の性格や状況から推測してコミュニケーションを取るようにしていたのですが、その名残で日本に帰って来てからは今まで以上に相手の事や世の中、自分のことを考えるようになっていたのですね。
『この人は何を考えてその言葉を言ったのだろうか?』
『それに対して自分はどうしてこう思ったのだろうか?』
こんな風にして『なぜ自分は…』という事を常に意識していました。
このクセが帰国した後でも続いていて、今でも『なぜ』を常に考えることがやめられなくなっています。
ちなみに、『なぜ』を考えることに関してはある事が影響しているのですが…それはこのブログ記事が読まれるようになったら書きます。多分ここまで読まれていないと思うけど。笑
自分の人生を振り返ると、留学が私の『自分探し』のターニングポイントになった気がしています。
『自分探し』のきっかけインドではなくニュージーランドだった訳ですね。笑
だから私は『自分探し』をやめない
私は20歳の時の留学をきっかけに『自分探し』を始めていました。
そして30代になった今も『自分探し』をしていますし、40代、50代、60代になっても『自分探し』は続いていくと思います。
それは私の『自分探し』には答えがないし、『自分探し』それ自体が答えだから。
ふと「何してる時が一番楽しいかな?」と考えた時、「頭に浮かんだものを形にしていく過程が一番面白いな」と感じました。
それは妄想ではなく『現実とのすり合わせ』のような、『きっかけ・出来事』に対して『なぜ自分はそう思うだろうか?』と考える作業。
この作業がクセになっているから、考えること、悩んでいることそれ自体が楽しく感じるようになっています。
極端に言えば答えなんて興味がない。プロセスが楽しいんですね。
だから『自分探し』をやめるつもりはありません。
いま思うとこのブログを始めたのも本能だったんだろうなーと。
私が自分で考えた事を表現する手段は『文章を書くこと』しかなかった。
音楽だったり、映像、イラスト…表現するための方法はいろいろあるけれど、その中で『文章を書く』ことをただ選んだだけって感じですね。
ただただ考えたこと、思ったことを記録していくのが楽しいから、誰かに共感してほしいなんて思わないし、このブログに書いたこと自体が答えになってるから、反応もあってもなくてもどっちでもいい。
だから、このブログは自分にとって最高の趣味のような気がしています。お金もかからないし。笑
もちろん、ウェブ上に公開している以上は誰かの役に立てたら嬉しいし、故意に誰かを傷つけないようには意識していますが、それよりも自分の欲求を満たす記事や文章を書きたい。
このブログは私にとって『自分探しの答え合わせ』のようなものなのかもしれません。
他人だったり、異国の環境だったり、自分以外の対象者や対象物によって自分が見つかるならそれでいいし、そうじゃないなら自分一人で考えればいいと思います。
自分って探そうとして見つかるものじゃないと思うし、仮に見つかったとしても変化するものだと思うし、無理して見つける必要もないと思うので、考えることをやめない以上は探し続けます。
できればずっと見つからなければいいなと、そっちの方が私の人生は楽しくなりそう…ですよね?(゚∀゚)
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